『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』がなぜベストセラーになったのか?

「ベストセラーとは、時代の空気にベストタイミングで合致した本を出したときにだけ起こる、台風のようなものだと私は考えている」(本書43ページ)。

 

この記述のとおり、本書は今という時代の空気にベストタイミングで合致した本と言えるでしょう。4月17日の発売後、わずか1週間で発行部数10万部を突破するという「台風」を発生させ、発売から4か月たった今も、アマゾンや紀伊国屋書店の新書売上ランキングで3位という「風速」を維持しています。三宅さん、大成功ですね。

 

この書評では、本書がなぜこれほど売れたか、その理由を私なりに考えながら、本書の魅力を紹介してみたいと思います。

 

本書の魅力は、大きく分けて3つあると思います。1つは、まさに時代の空気に合致した問題提起です。本書のタイトルは、多くの人が直面している『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という問題を明解に言語化しています。そして、後で述べるように、それが実は人生を左右する大問題であり、社会の格差とも関わる根深い問題であり、そして現代に生きる私たちの「働き方」に反省を迫る問題であることについて、とても共感できる説明をしています。自分の体験談に加えて、映画『花束みたいな恋をした』のシーンを効果的に使った説明には、引き込まれます。

 

魅力の2つ目は、明治から現代にいたるまでの歴史のガイドブックであることです。著者は、明治以降のベストセラー史や労働史などについての多くの資料を読み解きつつ、小説のシーンや意外性のあるエピソードを交えて、著者の視点で見た各時代の特色を魅力的にプレゼンしています。明治時代の「労働を煽る自己啓発書の誕生」に始まり、「読書は人生のノイズ」になってしまった2010年代まで、著者の見どころ案内を聞きながら、タイムトラベルできてしまう。そして、一見聞こえが良い「働き方改革」によって、私たちは自分で自分を搾取する「疲労社会」に生きている、という現実に連れ戻されます。

 

魅力の3つ目は、「半身で働こう」という提案です。全身全霊で働くのをやめて、読書などの文化的な生活をもっと楽しもうよ、それがこれからの社会の望ましいあり方だよ、という提案は、多くの読者の心に響いたはずです。「そうは言っても・・・」と思う読者に対して、著者はこう語りかけています。「燃え尽き症候群は、かっこいいですか?」全身全霊で働くと、疲れる。そして、その行きつく先は「燃え尽き症候群」。そんな生き方をやめませんか? さらに著者は、「仕事に全身コミットメントすることは、一緒に住んでいる他人によるケアを必要とする場合が多い」ことを指摘しています。半身で働いて、他者の文脈を取り入れる余裕を作ろう。この呼びかけに、私は心から賛同します。

 

それでは、これら3つの魅力について、より詳しく見ていきましょう。

 

まず、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』というタイトルが、多くの人の興味をひきつけましたね。このタイトルを見て、著者と同じように「そういえば私、最近、全然本を読んでいない!!!」(本書まえがきより)と思った方が少なくないでしょう。私は働きながらも本を読んでいるほうですが、それでも本を読むのに疲れて、つい、スマホSNSアプリを開いてしまうことがよくあるので、本書のタイトルには、胸がうずきました。

 

タイトルにつられて本書を手に取ってみると、「まえがき」の冒頭にはこう書かれています。

 

本が読めなかったから、会社をやめました。

 

気づけば本を読んでいなかった社会人一年目

ちくしょう、労働のせいで本が読めない!

 

この書き出しは、読者の心にグサリと刺さったのではないでしょうか? 実体験にもとづく著者の愚痴語りに共感しつつ、「ええっ!会社やめちゃったの?」とびっくりした方が多かったことでしょう。さすがは、『バズる文章教室』(※)の著者です。著者の「バズるつかみ」に、私は今回もしっかりひっかかりました。

 

※私の書評

『バズる文章教室』書評1:垂らされた釣り糸にひっかかった話

https://yahara.hatenablog.com/entry/2019/06/11/072930

 

「まえがき」に続く「序章」では、映画『花束みたいな恋をした』のあるシーンが紹介されています。大学生のときに出会い、小説などの趣味で惹かれあった麦と絹。やがて就職し、営業マンとして夜遅くまで働くようになった麦は、読書に心が動かされなくなった現状を絹に吐露します。「頭入んないんだよ」・・・そして、絹に渡された小説を読もうとしない麦。ふたりのすれちがいは決定的になってしまいます。働いて、疲れて、本が読めなくなると、あの素晴らしい愛がおわってしまうのです。

 

この映画を通じて、著者は「働いていると本が読めない」という問題の重大さを、読者にとてもわかりやすく伝えています。

 

こうして、本書のメインテーマの上に上手に釣り糸を垂らしたうえで、著者は2つのサブテーマを手際よく紹介しています。

 

まずは「社会の格差と読書意欲」。麦は地方の花火職人の息子、絹は都内のビジネスマンの娘。二人の読書意欲の違いには、この出身の格差が影響している、という意外な視点が提示されます。ここで、本書は決して簡単な答えを書いている本ではないことがわかります。

 

続いて「日本人はいつ本を読んでいたのか」。日本の長時間労働はいまに始まった話ではありません。戦前にすでに長時間労働が問題になっていました。現代は、戦前に比べれば労働環境は改善されているはずです。にもかかわらず、なぜ私たちは「労働と読書の両立」に苦しんでいるのでしょうか?

 

これら2つのサブテーマを紹介した序章は、次の文で締めくくられています。

 

<それでは、時計の針を明治時代まで戻そう。>

 

買った! この文章を読んで、そう思った人は少なくないのではないでしょうか。著者が言う通り、読書の楽しさは、自分から遠く離れた文脈に触れることにあります。その楽しさを知っていて、そして「そういえば私、最近、全然本を読んでいない!!!」と思う人に向けて、本書は書かれています。

 

私はあるテーマについて、歴史をさかのぼって展望した本が大好物なので、4月以来本書を持ち歩き、何度も読みました。その感想を言語化できる準備が整ったので、このブログを書いています。

 

現代の問題を理解するうえで、歴史をさかのぼって展望するというアプローチは王道です。しかし、歴史は複雑なので、歴史をタイムトラベルするには、何らかの視点が必要になります。これまでにもさまざまな視点が提案されていますが、「読書と労働の関係」という視点は、とても新鮮です。すでに知っている歴史の違った側面が見えるし、これまでに知らなかった歴史の風景も見えてきます。本書の第一章から、2つの例を引用して紹介します。

 

<明治時代初期に読書界に起きた革命と言えば、「黙読」が誕生したことだ。

江戸時代、読書と言えば朗読(!)だったのだ。>

 

ええっ! そうだったの? 江戸時代の人たちは、あの長編『南総里見八犬伝』(※)を朗読していたのか!?

そういえば、『南総里見八犬伝』の文章は、リズミカルでテンポもよくて、朗読向きですね。

 

※「らんまん」にも登場した『南総里見八犬伝』について、三宅さんは次のエッセイを書かれています。このエッセイには『南総里見八犬伝』の冒頭文も紹介されているので、ぜひご一読ください。

https://toyokeizai.net/articles/-/681638?page=2

 

2つめの例。

 

<たしかに福沢諭吉の『学問のすゝめ』は明治初期のベストセラーだ。しかしそれは県庁から区長を通して各区に一定数が割り当てられ、公的な流布も行われたからこそのヒット作なのである(前田愛『近代読書の成立』)。まるで教科書を無理矢理生徒に買わせて売り上げを増やす教授のような手法だと思う。>

 

げげっ! そうだったのか。初耳です。新政府に参加しなかったにも関わらず、福沢諭吉が明治政府に大きな影響力を持っていたことを物語る、おもしろいエピソードですね。

 

『学問のすゝめ』よりももっと売れたのは、英国のベストセラーを翻訳した『西国立志編』だそうです(ちなみに、「ベストセラーとは、・・・」という冒頭の文章は、この文脈で登場します)。

 

ニュートン、ナポレオンなど、「ふつうの市民からなりあがった人」の教訓を集め、働く男性が成功するための心構えを説いた『西国立志編』は、明治時代に100万部も売れ、大正時代にもベストセラーの「風速」を維持しました(一方で『学問のすゝめ』の売上は明治後期には落ちた)。

 

ただし、この日本最初の自己啓発書を読んだのは、エリート男性ではなく農村出身の工場労働者だったそうです。この「階級格差」の存在を、本書では、夏目漱石著『門』において、宗助が歯医者で『成功』という雑誌をはじめて知るシーンを通じて、わかりやすく紹介しています。

 

以上の例のように、三宅さんは、ときには前田愛『近代読書の成立』のような文献を紐解き、ときには夏目漱石著『門』のような小説の一シーンを描くことで、各時代の特徴-明治時代であれば「労働を煽る自己啓発書の誕生」を活写しています。

 

いやぁ、おもしろいです。知らないことがたくさん書かれていますが、いろいろな知識がストーリーでうまく結びつけられており、映画のシーンを見るような描写が随所にあり、さらに「まるで教科書を無理矢理生徒に買わせて・・・」というようなコミカルな文章が挿みこまれているので、「ノイズ」を感じずに、心地よく読み進めることができます。三宅さんの「作戦」は、見事に成功していると思います。

 

一方で、本書の内容はかなり重厚です。巻末の「参考文献一覧」には9ページを使って109点の文献がリストされています。このリストには、本書で紹介されている小説だけでなく、明治以来の読書史と労働史に関連する専門的な文献が多数引用されています。さすがは京大で修士論文を書いた経験を持つ三宅さんです。

 

本書は、研究者としての経験と、文筆家としてのキャリアを併せ持つ三宅さんだからこそ書けた本ですね。

 

さて、明治以降の時代の特色はといえば、以下のように、各章のタイトルで簡潔に言語化されています。

 

「教養」が育てたサラリーマン階級と労働者階級-大正時代

戦前サラリーマンはなぜ「円本」(※)を買ったのか?-昭和戦前・戦中

「ビジネスマン」に読まれたベストセラー-1950~1960年代

司馬遼太郎の小説を読むサラリーマン-1970年代

女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー-1980年代

行動と経済の時代への転換点-1990年代

仕事がアイデンティティになる時代-2000年代

読書は人生の「ノイズ」なのか?-2010年代

 

※円本

全集のこと。言葉の由来は1冊1円という価格設定による。最初の「円本」は、改造社現代日本文学全集』。この全集は全巻一括予約制をとり、「これを読んどきゃ間違いない」という作品集を提供した。統一された全集の背表紙は、インテリアとしても映えた。三宅さんは円本を、「日本で最初のつん読本」と表現されている。確かに、私の実家にあった日本文学全集は、ほとんど読まれていなかった。しかし、この日本文学全集のおかげで、私は「これを読んどきゃ間違いない」という作品集を一通り読むことができた。円本は時代を超えて、日本の読書の裾野を広げたと思う。

 

そして、1990年代をとりあげた第7章の最後に、「ノイズ」というキーワードが初登場します。

 

自己啓発書。その特徴は「ノイズを除去する」姿勢にある、と社会学者の牧野智和は指摘する(『日常に侵入する自己啓発-生き方・手帳術・片付け』)>

 

自己啓発書の特徴は、自己のコントローラブルな行動の変革を促すことにある。つまり他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントローラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。それが自己啓発書のロジックである。そのとき、アンコントローラブルな外部の社会は、ノイズとして除去される。>

 

ここでは「ノイズ」という言葉が、「アンコントローラブルな他人や社会」を指していますが、著者はこの概念を、「読書における、すぐに必要のない情報」という意味に拡張しています。

 

<読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテイメントである。そのノイズ性こそが、麦が読書を手放した原因ではなかっただろうか。>

 

1990年代以前には、読書は「知らなかったことを知ることができる」ツールだった、と著者は言います。そこにあったのは、「社会のことを知ることで、社会を変えることができる、自分のことを知ることで、自分を変えることができる」という、社会参加と自己探索の欲望でした。

 

しかし、1990年代以降は、市場適合と自己管理が重視されるようになり、「知らなかったことを知る」ことよりも、仕事にすぐに役立つ「情報」を効率よく手に入れることが重要になりました。その結果、「えらい人と話をあわせるツール」としての「ファスト教養」が重宝され、情報収集のために映画すら早送りで観る人たちが登場しました。

 

「ファスト教養」や早送りの映画も、自分の外側にある文脈(つまりノイズ)への入り口になり得ます。しかし、全身全霊で働いていると、「仕事以外の文脈を取り入れる余裕がなくなる」-それが問題なのだと著者は主張しています。

 

さらに、哲学者ビョンチョル・ハンの著作『疲労社会』を引用し、現代の私たちが直面している全身全霊の労働は、明治以来1990年代まで続いた長時間労働と、大きく異なると著者は主張しています。

 

<過去においては、「企業や政府といった組織から押し付けられた規律や命令によって、人々が支配されてしまうこと」が問題とされていたが、現代の問題はそこにはないのである。>

 

<会社が強制するかどうかの問題ではない。個人が「頑張りすぎたくなってしまう」ことが、今の社会の問題点なのである。>

 

このような現代社会を、著者は「強制されていないのに、自分で自分を搾取する疲労社会」と表現しています。

 

SNSを眺めれば、他人が仕事の成果を報告している様子が目に入り、自分もこんなに頑張っているのだ、とアピールしたくなってしまう。そういえば、確かに私も、以前は毎日忙しく働いている様子をSNSで書きつづっていました。

 

このような社会環境の中で、無理してでも頑張った人を褒め称えるべきだ、という考えを、多くの人が共有してしまっています。そして、「働き方改革」や「ワーク・ライフ・バランス」などの一見良さげなスローガンの下で、労働と余暇の境界が曖昧になり、教育や子育てすら、全身で頑張る社会構造が生まれているのだと、著者は述べています。

 

<現代において―私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。戦いを挑み続けた自己はどうなるのだろう? 疲れるのだ。>

 

このような「疲労社会」において、「燃え尽き症候群」(バーンアウト)が生まれています。そこまでいかなくても、「働いていると本が読めなくなる」状況が生まれています。

 

ちくしょう、労働のせいで本が読めない!

 

三宅さんが愚痴るこの状況は、私たちの社会全体が直面している、根深い構造的な問題なのです。

 

しかし、このような状況への反省も生まれていることにも、著者は注目しています。

 

自分で自分を搾取する社会を象徴する自己啓発書のひとつに、前田裕二著『人生の勝算』があります。『花束みたいな恋をした』で、仕事に忙殺され、小説が読めなくなった麦が手に取っていた本です。この本を編集した幻冬舎の凄腕編集者、箕輪厚介さんは、2018年に『死ぬこと以外かすり傷』という本を書かれているそうです。しかしその箕輪さんが、2023年には『かすり傷も痛かった』という本を出版されている。

 

<そりゃそうだ。いくら死ななきゃいいと思っていても、現実は、かすり傷ですら痛い。―そのことに皆が気づき始めたのが2010年代後半だった。>

 

こうして2010年代後半までの読書と労働の歴史をたどるトラベルを案内してきた三宅さんは、第9章の最後に、以下のように提案しています。

 

<この社会の働き方を、全身ではなく、「半身」に変えることができたら、どうだろうか。>

 

「全身全霊」をやめませんか―このタイトルで始まる最終章の提案が本書の第3の魅力です。

 

<私はあなたと半身社会を生きたい。それは自分や他人を忘れずに生きる社会だからだ。仕事とケア、あるいは仕事と休息、あるいは仕事と余暇が、そして仕事と文化が両立する社会だからだ。

半身社会とは、複雑で、面倒で、しかし誰もバーンアウトせずに、誰もドロップアウトせずに済む社会のことである。まだ絵空事だが、私はあなたと、そういう社会を一歩ずつ、つくっていきたい。>

 

この呼びかけに書かれた、「半身社会」という新しい言葉で表現されている社会ビジョンには、とても大切な2つのポイントが提案されていると思います。

 

ひとつは、「自分」を大切にすることです。「自分で自分を搾取する社会」は要するに、他人や社会に認められることを重視している社会です。他人や社会に認められ、成功するためには、「死ぬこと以外かすり傷」と思う社会です。この社会では、実は「自分」はちっとも大切にされていません。他人や社会の評価とは別に、自分の評価軸をしっかりと持ち、自分を豊かにしていくことが、長い人生を生きるうえでは、とても大事です。自分を搾取し、自分を消費するのではなく、自分に栄養を与え、自分を成長させることが、人生の成功者になる道だと思います。

 

もうひとつは、「他人」を大切にすることです。人間の喜びには、評価されて嬉しい、という報酬系ドーパミン系)の喜びのほかに、他者の役に立てて嬉しい、という協調系(オキシトシン系)の喜び(共感=エンパシー)があります。どちらも「喜び」や「嬉しい」と表現されますが、この2つの感情は大きく異なる生理現象です。前者は競争、後者は協力と結びついた感情です。私たちが生きるうえで、どちらも欠かせない感情ですが、資本主義社会では競争と結びついた、評価される喜びばかりが強調されます。しかし実際には、私たちの社会は無数の協力によって成り立っています。そして、他者の役に立てて嬉しい、という感情は、自分の存在を肯定し、幸せに生きていくうえで、欠かせないものです。

 

読書は、自分に栄養を与え、自分を成長させる行為であるとともに、他者の文脈について理解を深め、他人との関わりを豊かにしてくれる行為でもあります。面白い本を紹介しあえる友人がいるだけで、人生は豊かになります。

 

三宅さんは、本書のあとがきで、以下のように書かれています。

 

<私自身は、働くの、めっちゃ好きです。働いていると、自分の興味の幅も広がるし、プライベートでは知り合えないような他人とも出会えるし、なにより自分の仕事が形になることが楽しい。>

 

この文を読むと、三宅さんは「死ぬこと以外かすり傷」と思うような方ではなく、自分も他人も大切にされている方だとわかります。それでも本書を書かれたのは、書く仕事を全身全霊でできなくなった日が来ても、自分を否定したくないからだそうです。

 

<仕事に人生を奪われたら、だめだ、と思います。まあ、仕事、熱中しちゃうんですけどね。好きだから。でもそれが偉いことみたいに、思いたくない。仕事に熱中しない自分を、否定したくない。

そういう未来の自分への忠告を書き残しておきたくて、本書を書いたのかもしれない。>

 

以上の紹介からわかるように、「半身社会」についての三宅さんの提案には、未来の自分を含む、他者へのやさしいまなざしがあります。それは、男性社会で成功した「勝ち組」による自己啓発書に決定的に欠けているものだと思います。

 

本書は、明治以来連綿と書きづづけられてきた「自己啓発書」の中で、長く見過ごされてきた「他者へのまなざし」(三宅さん流に言うと、他者の文脈を取り入れる余裕)の大切さを指摘した本だと思います。

 

本書がベストセラーとなり、社会的注目を集めているのは、とても良いニュースですね。本書を読んで、時代は確実に変わりつつあると思いました。

 

私はしばしば「いつ寝ているんですか?」と聞かれます。全身全霊で働いている人間の見本のように見られているかもしれません。しかし実は、読書にけっこう時間を割いていて、ときどきこのように書評をブログに書いています。一見全身全霊で働いているように見えても、実は社会の評価よりも自分がやりたいことを大切にし、そして他者との関わりを大切にして毎日を送っていることに、本書は気づかせてくれました。この私の経験から、「半身社会」に向けて語りたいことがいくつかありますが、それはまたいずれ、別のブログで書きたいと思います。

 

私は4月以来、本書をカバンに入れて持ち歩き、書評の構想を考えるのを楽しんできました。8月上旬のカザフスタン出張中に、かなり考えがまとまりました。昨日帰国し、今日はのんびりとこの書評を書いて過ごしました。この書評が、三宅さんの本をまだ読んでいない人に届き、少しでも多くの人に本書が読まれることを願っています。